僕は既視感というものに結構支配されている感がありまして。
例えば工場地帯に異様な懐かしさを感じたり、バスが一台しか入らないような小さいターミナルで木製の古びたベンチに座りながら大きなセイコーの時計を眺めている自分を思い出したり、何の変哲もない典型的な日本の郊外の風景に心を揺り動かされたり、それはまぁ色々あるのですが、それらを単に既視感として片付けていいものか、という感情が最近強くなってきました。
上の写真は下鴨神社の西側の道路なんですが、まぁそれこそ何の変哲もないただの道です。
ただ、ある日の夕方、西日の強烈な時間帯にそこを通りがかったところ、なんともいえない強烈な磁場に心ごと持っていかれそうな感覚に襲われまして、「ああ、ここは確かに昔僕が住んでいた場所に似ている」と。
もちろん「こちらの」記憶ではそんな過去は全く存在しないのですが、「雨上がり、木の生い茂る歩道の、車道側にも一定間隔で木が植えてある四車線の道路沿いの二階建ての古いビルの二階で本を探している」という記憶は確固として「どこかの」僕の中に存在しているわけです。
それを過去の記憶がいろいろごっちゃになった末の脳のいたずら、と言ってはそれまでなのですが、それで済ますにはあまりにも寂しいしなにしろロマンが無い、ということで、最近はそれを「パラレルワールドでの記憶」と思い込むことにしました。
自分自身を納得させるにはそれが一番良い方法で、かつ誰にも完全には否定できない、というのは安心感をも与えてくれます。
既視感が比較的近いパラレルワールドでの自分自身の記憶の一部だと考えると、それをないがしろにするのはちょっと勿体ないような気がするのです。